INTERVIEW
故郷に住んでこそ見えるもの
福島県 北海道・東北ブロック
河治 徹
Toru Kawaji
私は、福島県郡山市片平町に生まれ育ちました。大学時代は東京の八王子に住み、卒業後この町へ戻って来ました。会社は「まるみ河治材木店」という材木屋と「いちい住宅」という工務店の2つを経営しています。父の代からの会社で、私で二代目。強みは材木をしっかり仕入れることができる。そして、地場の工務店のため、大工さんが一つ一つの建物としっかり向き合いながら確かに造ることができるという点ですね。子どもの頃から家業は継ごうと思っていて、親からも期待されていました。子どもながらに仕入れてきた材木を下ろすのを手伝ったり、木材市場に連れて行ってもらったり。自宅と会社が同じ敷地で、生まれながらに家業を意識する環境にいました。片平町は、郡山市の中でも合併をしていない町。そのせいかコミュニティは小さく、我々の時代にはエリアやマーケットの裾野を広げようとしていて、町に対する依存度は比較的低いかもしれません。他の町では、自治体があった町なので、商工会青年部のつながりは強いのではないでしょうか。
商工会青年部に入ったのは24歳か25歳くらいのとき。先輩ばかりの環境でしたが、嫌だと思うことは何一つありませんでした。むしろ活動を楽しんでいました。現在の部員は10人くらい。ここは商業系の仕事に就いている人が少なく、私もそうですが工業系の人が多い。板金屋だったり鉄骨屋だったり大工だったり。本業の仕事でつながることが多いですね。同じ価値観の中にいることで、活動も楽しくなる。商工会青年部は商売であり、仲間づくりの場だと思います。
郡山市は商工会議所があり、その周りに商工会が12個あります。ここでは広い目線で見ようとする意識が強いですね。福島県の単会はというと88と多く、連携を取ることに苦労はありますが、仕事でいうと郡山市は新幹線、高速道路のハブになっているので会社も人も集まりやすい。建築関係でも営業所が乱立している状態です。また、郡山は開拓の町なので、江戸商人、仙台商人、北陸商人と3パターンの商人が入っている町。難しい面はありますが、私はここで生きていくと決めています。
商工会青年部のメンバーに話しをする時には、「僕らは福島なんだ!」と口うるさいほど言っています。覚悟が違うということです。地区連協のブロックの会長に4月から就任することになっていた時、3.11の震災が起きました。映像で自分の仲間の地域の商工会青年部が壊れたのを見て、衝撃を受けました。さらに津波で福島の岩城が倒壊。泣くよりも奮い立ちました。絶望する暇がなかったのです。原発が爆発したことがどういう影響を及ぼすのかさえわからず、大変でした。
私には娘3人息子1人がいますが、あの時は私は現場で仕事をしていて、妻と娘の安否が気にかかりながら、仕事から逃げることができなかった。原発の被害がひどくなったとき、妻に新潟の実家へ避難しろと言うと、家族は「パパと離れるストレスの方が大きい」と結局残りました。何が正解だったのかわかりませんが、私の気持ちに変化が起きたのは確か。「生きていくための町を作ろう」という決心がついて、奮い立ちました。決断は、誰かの支えがあってこそできるのかもしれませんね。
商工会青年部の中にも家族が大変な人もいましたが、守るべきなのはそこ。未来が語れないと、大人をやっている意味がありません。子どもたちにきちんと教え、見せ、語っていきたいと思います。
あれから7年が経ち、福島の商工会青年部は何をするべきか。一昨年の全国大会では、「これをしたから福島はこう変わった」ということを強く打ち出し、地域を守るという意識を、みんなで共有することができました。大会のテーマ『ふるさと思創奏』は、ふるさとを思い、人を作り、未来を奏でる、これはまさに福島だからこそです。この地で生きていく覚悟を決めた青年部員だから、ということを伝えていきたいと思っています。