INTERVIEW
本当に困ったとき、支え合うのは人
熊本県 九州ブロック
吉田 忠敬
Tadataka Yoshida
全国的にフランチャイズ化しているダスキンで、加盟店として熊本県の御船町で仕事をしています。主には熊本市内と上益城郡がエリア。祖父が山都町で創業し、父は幼少期をそこで過ごしました。その後山間部では仕事がしづらいということになり、熊本市内に近い御船町へ拠点を移し、私はそこで生まれました。ダスキン本社は創業53年ですが、我が社は47年。私は三代目です。
御船町は、町も道路が区画整理されてからは交通の便がよくなり。少しずつ若い世代の人口移入が進んでいます。家も振興住宅ができて活性化が進んでいくかと思った頃、熊本地震が起こりました。結局多くの人が仮設住宅に住み、活気も今ひとつ。観光スポットもあるのですが、通過型でなかなか世間に知られる場所がない。とはいえ、我々が御船の魅力を見出して発信しなければいけない。しかしまだ地域起こしに苦労しているのが現状です。産業もこれといったものはないのですが、恐竜で有名になったことがあります。町外や海外の人も来るところを見ると、案外こうしたところに活性化のヒントがあるのかもしれません。
商工会青年部に入ったきっかけは、兄です。元々の後継者は兄でしたが、兄が会社を辞めることになり、入会していた商工会青年部をそのまま引き継ぐことになったのです。私は現在42歳ですが、ちょうど10年前に商工会青年部に入り、副部長・部長、そして県の会長になりました。
それまで紆余曲折があり、兄の存在があったので一度は北九州へ出たのですが、やはり熊本が好きだったから。家業を継ぐつもりは当初はなく、3年くらい異業種の仕事をしていました。その時に、御船をどうしたらいいか、ということは漠然と頭の中にありました。それがいつしか人生の目標になり、夢になっていました。今は、この地に留まって家業を継いだことを本当に良かったと思っています。過去には、小さい町だと言って不平を言っていた自分がいましたが、それは自分の行動範囲が狭かっただけ。山へ登ると、御船は広く雄大です。そのことに気づいたときは、まさに「目からウロコ」の気分でした。
自分の記憶の中で、熊本地震のことはやはり拭えない経験です。私が見たのは益城町でした。被害がひどく、そのとき私は上益城の会長もしていたこともあり、すぐに益城町に、熊本県商工会青年部全体の拠点を置き支援活動に乗り出しました。益城町は震源地だったので全国から多くの青年部員の仲間たちから支援物資が届きました。御船も被害を受けていたのですが、私はほとんど帰ることができず、ただそこから物資を送ることができたのは幸運と言わざるを得ません。商工会青年部の支援物資が九州各地からいち早く届き、中には自分たちでトラックを運転して来てくれた人たちもいました。自分の身の危険も顧みず行動してくれた青年部の力をあらめて感じるとともに、人のネットワーク、絆、繋がりを肌身で感じたのです。この時、本当は次の会長になるつもりはなかったのですが、自分から県の会長にもう一度なって皆さんにお礼がしたいと思うようになりました。まず自分たちが復興をきちんとやって、地震を言い訳にせず、熊本はやっぱり違うな!と、地震後の復興モデルになりたいと我々は意気込んでいます。